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日本のタイルの近代史と株式会社淡陶社の歴史

タイル研究室

こんにちは。タイル研究室です。本年もよろしくお願いいたします。

突然ですが当社は2025年1月から社名を「株式会社淡陶社」に変更いたしました。この社名は弊社グループが140年前に淡路島で創業した当時のものです。

そこで今回のタイル研究室では、日本のタイルの近代史、それと共に歩んできた当社の歴史をご紹介いたします。最後までお読みいただければ幸いです。

日本のタイルの近代史

そもそも「タイル」の語源は、ラテン語の“テグラtegula”からきており「物を覆う」という意味で、建物の壁や床を覆う陶磁器製の建築材料を指します。タイルの歴史はとても長く、古くは紀元前2700年前にまで遡ります。世界最古のタイルは、エジプトのピラミッド建設に使用され、以後、世界の情勢と共に、様々な進化を遂げてきました。

日本のタイルの歴史は約1500年前の飛鳥時代にさかのぼります。仏教と共に中国大陸から伝わった塼(せん/敷瓦・瓦)が寺院や宮殿の屋根や壁に使われ各地に伝播し、定光寺や西本願寺、永平寺などで使用されました。江戸時代後期にはタイルが輸入されるようになり、幕末から明治にかけてイギリスやオランダからのタイルの輸入量が増加し、洋風建築の内装などにタイルが使われ始めます。

明治4年(1871年)にはタイル史上の記念碑的な建物である泉布観(大阪造幣寮貴賓応接所)が竣工しました。貴賓応接所として建てられた泉布観は、コロニアル・スタイルの2階建てで、室内床には朱泥と黒の碁盤目模様タイルが貼られており、周辺には同様の模様がペンキで描かれました。暖炉にはイギリス製装飾タイルが使用され、それらの美しさ、完成度の高さは国産タイルに大きな影響を与えました。

泉布観-外観
泉布観

明治39年(1906年)頃から国産タイルの量産化が始まると洋風建築が広まり、コンクリート造りの高層建築が普及するにつれ、タイルの需要は拡大しました。1922年(大正11年)4月12日には、東京・上野で開催された平和記念博覧会の全国タイル業者大会で“タイル”という名称に統一することが決まりました。それまでは敷瓦、腰瓦、壁瓦、貼付瓦煉瓦、化粧煉瓦などなんと25通り以上もの呼称があったそうです。また、大正12年(1923年)の関東大震災ではレンガ建築の被害が大きく、タイルを使用した建物への転換に拍車がかかりました。

昭和に入り、タイル業界ではトンネル窯の採用が始まり、日本のタイル製造は、近代化、大量生産の工業製品時代へと向かいます。しかしその後日本は戦争の渦に巻き込まれていくことになります。昭和14年(1934年)の石炭配給規制により、生産量はこの年ピークに急下降します。タイルは贅沢品と見なされ、非国策品として生産もままならない状況となり、耐火煉瓦・呂号兵器用部品などの国策品の製造に転換を余儀なくされました。

昭和20年(1945年)に終戦を迎えますが、戦争により壊滅的な状態となったタイル業界は進駐軍の需要により業界に活気が戻ります。米軍は接収した建物を自分たちのライフスタイルに改造するため大量のタイルを求めました。最初は焼け残った建物からもタイルをはがしかき集められていましたが、タイル工場の多くは地方にあり焼失をまぬがれていたことが幸いし、GHQの指導もありタイル工場は次々と復旧し生産を再開しました。戦後わずか2~3年で2億円もの需要があり、タイルメーカーは息を吹き返し、事業を軌道に乗せていきます。米軍のもたらした文化により、タイルの色はカラフルになり、形やサイズもアメリカの規格が主流になりました。施工方法についても合理主義が取り入れられ、1枚1枚タイルを張る在来工法から、効率的なユニット工法が生まれました。

昭和39年(1964年)にはアメリカの内装タイルの全輸入量のうち日本が70%を占め、モザイクタイルは世界各地へ輸出されるなど、高品質で低価格な日本のタイルは世界市場を席捲するまでにいたりました。

しかし、同年に開催された東京オリンピックのお祭り騒ぎが一段落した後、国内は大型の不況に見舞われ、国内需要は衰えていきました。各タイルメーカーは輸出に活路を求めましたが、メキシコ・コロンビア・フィリピンなどの発展途上国が価格を強みに、伝統的なデザイン技術を持つイタリア製デザインタイルがじりじりとアメリカ市場に食い込んでいきます。特にイタリア製デザインタイルには日本のプレーンカラーにはない変化に富んだデザインと色があり、アメリカでのブームは世界の建築界の趨勢にも影響を与え、ついには日本にも及ぶようになります。その影響は内装タイルだけにとどまらず、床タイル・外壁タイルまで広がり、若者の集まる施設には床から壁・天井までタイルを張るところも出現しました。

イタリア製デザインタイルの国際的な進出に、日本のメーカーも対策に取り組み、創意をこらし、伝統的でかつ斬新なデザインを作り上げていきました。こうした努力はタイルの用途を改めて見直すきっかけとなり、インテリアからエクステリアまで新たなタイル需要を呼び起こしました。輸出不振に喘ぐ日本の各メーカーは国内需要に力を入れ始め、工期短縮と施工の省力化を目的にモデュール寸法の規格化や、接着剤を用いた接着工法を開発していきました。昭和40年代(1965年~)に入ると建物の高層化が進み、PC板のコンクリート打設時にタイルを接着する「PC先付工法」や、予め型枠にタイルシートを固定しておくことで、コンクリート打上がりと同時にタイル工事が完了する「現場型枠先付工法」が開発されます。「現場型枠先付工法」は昭和46年(1971年)に兵庫・住吉台住宅や東京・公団豊島五丁目団地で採用され、その後一般ビルへと広がり、在来工法から新工法へと時代に対応した工法の新しい道は切り開かれていきます。

昭和45年(1970年)に開催された大阪万博では、あの有名な「太陽の塔」の足元のお祭り広場に床タイルが敷き詰められ、屋外床タイルの流行につながりました。

このような歴史で、日本におけるタイルの文化が広まっていったのです。

淡陶社の歴史

当社グループの発祥は、江戸時代の文政(1817年~1831年)までさかのぼります。淡路島の南端、現在の南あわじ市で賀集珉平翁が京都の陶工・尾形周平に教えを請い作り始めた「珉平焼」が起源となります。珉平焼は当時の藩主蜂須賀公のお手窯として、主に花器、茶器などを作り、着色に用いた光沢釉が特徴で、いわゆる淡路焼ともいわれ広く名声を博しました。

珉平焼
珉平焼

明治18年8月(1885年)珉平焼を継承して、資本金1万円をもって現在の本店所在地である阿万工場(現淡路島工場阿万)に「淡陶社」が設立されました。当初は食器、花器、玩具などの製造販売を行っていましたが、明治25年(1892年)からタイルの生産を開始します。

明治26年(1893年)、商法実施により日本郵政に次ぎ日本で2番目の株式会社となり、「淡陶株式会社」に改称します。その頃のタイル製造方法は、粉砕した原石を粘土ともに調合し、水を加えながら土練機にかけ、良く練り混ぜて押し出す「湿式成形」が中心でした。しかしこの製法ではレベルの高い輸入タイルと同質のものはできませんでした。これを実現するためには、原石を粉砕し微細化して液状にしたものを乾燥させ、粉末化したものを高圧で圧縮して成形する「乾式成形」の技術を確立させることが必要でした。そしてその製法を完成させたのが、日本近代窯業の父といわれるドイツ人・ワグネル博士に師事した不二見焼の村瀬二郎麿、淡陶の能勢敬三です。二人はほぼ同時期に「手押しポンス」と呼ばれる人力による圧力機の開発に成功し、明治41年(1908年)にタイルの乾式成形を完成させました。淡陶はその後も製造設備の増設などを行いながら高品質化・量産化を進めていき、内国生産品共進会、内国勧業博覧会、貿易品生産共進会などで次々と受賞、その技術力を大いに強めました。

大正8年(1918年)には内装壁タイル製造専門工場として福良工場(現淡路島工場福良)が完成し、タイルの生産量を増加させていきます。

大正13年(1924年)にはそれまで並行して行ってきた輸出陶器の生産から撤退し、タイル生産を主力とするようになりました。乾式成形法の和製マジョリカタイルは全盛期を迎え、日本国内のみならず世界各国へ輸出されるようになりました。台湾、シンガポール、マレーシア、タイなどのアジアの国々では、様々な日本のタイルメーカーのマジョリカタイルが建築物に取り入れられ、なかでも高い評価をうけた淡陶社のマジョリカタイルは、今の時代もなお世界中の建築物に残っています。

マジョリカタイル
さらさ西陣
さらさ西陣

昭和5年(1930年)には、関東大震災の復興に尽力していた当時の東京市長・永田秀次郎からの依頼により、震災殉死者名簿タイルを作成し高野山に奉納しています。ちなみに永田秀次郎は兵庫県三原郡長田村(町村制後:倭文村、現:南あわじ市倭文長田)の出身で、自身の故郷でもある淡路島の淡陶に依頼されたようです。

弊社の技術研究所で保管しているもの

昭和14年(1939年)には戦時体制の時局で、国から美術陶器の製造中止命令が出され、淡陶も軍需工場として碍子・プラグ・耐酸バルブ等の生産を行いますが、軍需省の指令で技術保全のためにタイルの生産を継続することができました。

終戦後は上述のタイルの近代史でも記載したように、戦後の復興需要から高度経済成長の好景気に乗って宇都宮工場、福山工場を建設し増産体制を強化しました。

創業100周年を迎えた昭和60年(1985年)には、社名を「ダントー株式会社」に商号変更します。

平成に入り淡路島工場は、平成12年(2000年)に品質保証に関する国際規格ISO9002を、そして平成16年(2004年)には環境マネジメントシステムに関する国際規格ISO14001の認証を取得します。

平成18年(2006年)には会社分割による持株会社制への移行が行われ、ダントー株式会社はダントーホールディングス株式会社に商号変更、タイル事業を行うグループ会社として、販売会社としてダントー株式会社が、製造会社としてダントープロダクツ株式会社が設立されました。

その後、平成24年(2012年)に株式会社Danto、株式会社Danto Tileとして組織の再編と社名変更を行い、平成28年(2016年)の株式会社Danto Tile、株式会社Dantoを合併し、株式会社Danto Tileとなりました。

令和6年(2024年)には、東日本ダントータイル株式会社に商号変更をおこない、同年にはデザインを通してタイルの可能性を探るブランド「Alternative Artefacts Danto(https://aa-danto.com/)」が誕生、ミラノデザインウィークにも出展しました。

展示会場の様子
展示会場の様子

そして、今年グループ創業140周年を迎える令和7年(2025年)から、創業時の社名である「株式会社淡陶社」に商号変更しました。

まとめ

少し長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

日本のタイルの歴史は古く、飛鳥時代にまで遡ります。明治時代以降は西洋文化の導入とともにタイルの需要が拡大し、国産タイルの量産化が進みました。特に、大正時代以降は、関東大震災を機にタイル建築が普及し、昭和に入ると高度経済成長を背景にタイル産業は大きく発展しました。しかし、その後は海外との競争激化や国内市場の成熟など、様々な課題に直面してきました。

淡陶社は、日本のタイル産業の歴史の中で、乾式成形法の開発など、数々の技術革新を牽引してきました。 長きにわたり培ってきた技術と経験を活かし、日本のタイル文化の発展に貢献してまいりました。今回の社名変更は、創業時の精神に立ち返り、新たなスタートを切ることを意味します。140年の歴史の中で培ってきた伝統と革新性を融合させ、世界に向けて日本のタイルの魅力を発信してまいります。

淡陶社では、Webサイトからカタログや無料でのサンプルの請求が可能です。ぜひ手に取ってご確認ください。またタイルを検索する際、最適なタイルがご不明な場合は弊社までお気軽にお問い合わせください。


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